神の支配権 ― 全人類に唯一の希望を与えるもの
「神の支配権」は,人間の支配権が今まで人類に与えなかったものを与えることができます。それは何ですか。「並はずれてすぐれた」ものはしばしば「神の」ものと呼ばれていますが,人間の支配が今日まで全人類に与えてきたものは確かに「神の」ものではありません。この世の物事の経過に照らして判断すれば,人間の支配は,これまですでにわたしたちに与えた以上にすぐれたものを人間に与えうるなどと約束できるものではないことがわかります。しかも,これまでに与えられたものは,魂を満足させるどころか,あまりにも期待に反するものなのです。過去幾千年の人類史の全期間を通じて人類は,人間の支配が政府の支配権という点でその臣民である人間に与えうるのは人間の支配権にすぎないことを証明してきました。人類は不完全ですから,これまで行使されてきた人間の支配権も不完全なものです。広く受け入れられている進化論といえども,人間が驚くべき有益な「突然変異」によってわたしたちの世代のうちに,あるいは今後何億年かのうちに神々に進化すると期待できる根拠を提供するものではありません。ですから,人間の支配権に基づいて,現在の世界の苦脳が除去されるなどと期待できるものではありません。
人類の世界全体は絶望同然の状態におかれてきました。希望とは,「願う事がらに対する期待」もしくは「願いが満たされるとの期待を伴う願望」であると説明されています。また,希望とは,「期待の的とされる人物あるいは物事」と解することもできます。人はみな,おのおのささやかな希望や恐れを持っているものですが,人種・皮膚の色・国籍・社会的な立場などのいかんを問わず,全人類があずかれる希望があるなら,それはなんとすばらしいことではないでしょうか。まさにそのとおりです。なぜなら,それは決して利己的,国家主義的また人種的に偏ったものではなく,それは全人類の共通の願いや必要を満たすものだからです。世界の平和と安全のための機構である国際連合はおよそ30年間運営されてきましたが,そうした希望もしくは希望を与えるものとはなっていません。加盟国がさらにふえても,そうした失敗が成功に変わるわけではありません。国際連合は人類が自らの緊急な必要に答えて提供できた世界的な規模の最大の機関です。もし国際連合が以前の国際連盟のように機能を失わざるをえなくなるとすれば,ほかに人類はいったい何を提供できるのだろうかと多くの人びとはいぶかっています。
人類は途方に暮れています! これは疑う余地のない事実です。人間の支配権が功を奏していないことを正直に認める考え深い人びとはふえています。人間に基盤を置く彼らの希望は砕かれてきました。この点で最も悲しむべき事がらは,彼らが自分自身と他の人びとを慰めるよすがとなる希望をほかにはなんら持ち合わせていないということです。彼らが今いだいているのは,明確な形,あるいははっきりした輪郭さえ考えられない何ものかに対する切望や渇望だけです。しかも,心を満足させるその何ものかがどのようにして,またどこから来るのか,あるいはその到来を期待できるかどうかについては何も知らないのです。
しかしながら,すでに絶望状態に陥って悪化の一途をたどっている世界情勢は無数の人びとの希望を葬り去りましたが,そうでない他の人たちの場合,ほかならぬこの同じ事態が,それらの人の高まった希望に新鮮な活力を与えるものとなりました。彼らは,船に乗って海に下り,恐ろしい嵐に遭偶し,「酔った人のようによろめき,よろめいて途方にくれる」船乗りとして古代の叙情詩作者により描写されている人びとのようではありません。―詩篇 107:23-27,口語。
それら例外的な人たちとはいったいだれですか。世の苦脳は悪化の一途をたどっているのに,彼らの希望はいよいよ明るさを加えてゆくのです。彼らは他の人びとの持っていないものを得ています。それは何ですか。彼らは古代の叙情詩作者の述べた次のような健全な助言に従っている人たちです。「もろもろの君によりたのむことなく人の子によりたのむなかれ かれらに助あることなし その気息いでゆけばかれ土にかへる その日かれがもろもろの企図はほろびん」。(詩篇 146:3,4)この古代の筆者はわたしたちに対して,人間の支配権に望みをかけないようにと助言しました。それで,今日この助言に従う人たちは人間の支配権以上のことを考えます。しかし,ほかのどこに目を向けられますか。人間は進化したとする進化論を支持する人びとや,唯物主義という理論に従う人たちは,人間のような物質的なもの以外にほかにたよれるものは何もないと唱えます。彼らが自らの絶望状態に気づき,ついには自暴自棄に陥るのはそのためです。彼らの理論は満足のゆくものではないばかりか,納得のゆくものでもありません。なぜなら,それは不合理で,歴史の事実にも反するからです。しかし,わたしたちが期待すべき,人間の支配権以上のものが確かにあります。それは何ですか。神の支配権です! これこそ希望をいだいている現代の人びとが期待を寄せているものです!
前述の古代の叙情詩の作詞者がわたしたちに注目させているのはそのことなのです。彼は自分自身の経験と観察に基づいて語り,次のように続けています。「ヤコブの神をおのが助とし その望をおのが神エホバにおくものは福ひなり 此はあめつちと海とそのなかなるあらゆるものを造り とこしへに真実をまもり 虐げらるゝもののために審判をおこなひ餓えたるものに食物をあたへたまふ神なり エホバはとらはれたる人をときはなちたまふ エホバはめしひの目をひらき エホバエホバは屈者をなほくたゝせ エホバは義しきものを愛しみたまふ エホバは他邦人をまもり 孤子と寡婦とをさゝへたまふ されど悪しきものの径はくつがへしたまふなり エホバはとこしへに統御めたまはん」― 詩篇 146:5-10。
人間の支配権とその欠陥と無能さゆえにあなたはその「虐げらるゝもの」あるいは「餓えたるもの」のひとりとなっていますか。「とらはれたる人」あるいは「めしひ」または「屈者」のひとりですか。それとも,「他邦人」あるいは「孤子」または「寡婦」ですか。それでは,古代の叙情詩作者が指摘し,名ざしをしたこの王こそ頼って然るべきかたです。そのかたは,インドその他,人の住む地上の他の場所で崇拝されている何千万もの神神すべての中でそれと見分けられない無名の神ではありません。そのかたは,人間によって名づけられた神ではなく,かえって自らご自身に名を付された神です。天地の他の神で,その名によって呼ばれる神はいません。霊感を受けたその叙情詩の作者はこの神の名を7回指摘していますが,その名とはエホバです。
まちがった知識を持つ,偏見のある人は,このエホバという神とは何のかかわりも持たないよう思いとどまらせようとするかもしれませんが,この神に望みをかける人は,たとえ今日のような暗い時代にあっても前途の幸福を待ち望めます。古代の叙情詩作家は,「その望をおのが神エホバにおくものは福ひなり」と述べました。(詩篇 146:5)19世紀以前のこと,エホバに望みを置いていたひとりの人はエホバのことを「希望の神」もしくは「希望をお与えになる神」と呼びました。(ロマ書 15:13,新)エホバは全人類があずかりうる希望をわたしたちに与えることのできる唯一のかたです。なぜなら,エホバは人類の創造者だからです。全人類の望みを置けるのはエホバだけです。エホバが提供する神の支配権は,全人類に希望を与えるものです。もし神がそれを提供しなかったとすれば,全人類に希望を与えるものはほかにはなかったでしょう。あらゆる人種・部族・国民・言語からの人びとが,神によって保証されたこの希望を持てるようにするため,神は霊感のもとにしるされた聖なる書,つまり聖書を書かせました。神の名の署名を付して著わされたその驚くべき書物を調べれば,この確かな希望についてつぶさに学ぶことができます。
この神聖な実在者であるエホバは,人類が希望を必要とすることを遠い昔に察知し,人類の前に一つの希望を置きました。神が与えてくださるこの希望には,きわめて困難な時代に生きているわたしたちをささえ,またその希望が成就する喜びの時に至るまでわたしたちを救って苦難を切り抜けさせる力があります。この希望にあずかる人たちに対して,1900年前に次のように書き送られたのはそのためです。「我らは望によりて救はれたり,眼に見ゆる望は望にあらず,人その見るところを争でなほ望まんや。我等もし其の見ぬところを望まば,忍耐をもて之を待たん」。(ロマ書 8:24,25)神から与えられるこの希望は確かにわたしたちを喜びで満たし,動乱する世界のただ中にあってわたしたちに落ち着きを保たせてくれます。その結果,わたしたちの希望はあふれ,そしてわたしたちはおのずから,絶望状態にある他の人びとにその希望を語ります。この希望にあずかる人たちのために次のような祈りがささげられたのはそのためです。「願くは希望の神,信仰より出づる凡ての喜悦と平安とを汝らに満しめ,聖霊の能力によりて希望を豊ならしめ給はんことを」― ロマ書 15:13。
この「事物の体制の[見えない]神」であるサタン悪魔の見えない影響のもとにあって,いよいよ悪にふけってゆくこの世のただ中で,わたしたちはこの希望をいだいてゆかなければなりません。しかし,その増大する悪事からの救出は急速に近づいています。そうです,今や迫っています。前述の霊感を受けた筆者が,神からの希望にあずかる西暦1世紀当時の人たちに次のように書き送ったのはそのためです。「我が欲する所は汝らが善に智く,悪に疎からんことなり。平和の神は速かにサタンを汝らの足の下に砕き給ふべし」。(ロマ書 16:19,20)古代ヘブル語のサタンということばは,「反抗者また敵対者」を意味しており,ここでは神の主要な反抗者をさしています。その反抗者は,神に対する反抗を最初に引き起こした者であり,天と地の他の被造物をみな神とそのすぐれた目的に対して反抗させようとしています。ですから神は,このサタンを砕くことを行なっています。しかしこのことは,このサタンが砕かれるであろうとの希望にあずかっている人たちの足の下で行なわれるのです。この表現はサタンを,足の下で砕ける何ものかになぞらえています。つまり,さそりではなく,へびになぞらえています。こうしてサタンが砕かれると,なんという宇宙的な平和がもたらされるのでしょう!
しかし,サタンがこうしてあたかもへびのように砕かれるということをわたしたちはどうして確信できるのですか。それというのも,イタリアのローマにいた希望に満ちた人たちにあてたその手紙の筆者は,その中で聖書巻頭の書つまり創世記に出ている描画的なことばを引き合いに出したからです。その手紙全体の中で彼は創世記に何度も言及しています。(ロマ書 4:3,9,11,17,18,22; 9:7,9,12)そして前述のことばの中で筆者は創世記 3章14,15節に言及しています。この句の中では神は,地をはうへびに語りかけているように見えますが,実は,そのへびをあやつった大いなる反抗者に話しかけているのです。こうしるされています。「エホバ神蛇に言たまひけるは汝是を為たるに因て汝は諸の家畜と野の諸の獣よりも勝りて詛はる 汝は腹行て一生の間塵を食ふべし 又我汝と婦の間および汝の苗裔と婦の苗裔の間に怨恨を置ん 彼は汝の頭を砕き汝は彼の踵を砕かん」。このことがあってから4000年余の後,霊感を受けた筆者,クリスチャンの使徒パウロは希望のこの最初の光明について述べています。
わたしたちは今日,真のへびであるサタン悪魔を砕くとのエホバ神の,希望を起こさせるその約束が遂行される時にさらに19世紀以上近づきました エホバ神は,へびサタンによって踵を砕かれて死んだ苗裔の足の下に,またその踵を砕かれた苗裔の忠実な追随者の足の下にサタン悪魔を砕くのです。ということは,最初の人間男女をしてエホバ神に反抗させたかどで最初の反抗者サタンに対して滅びの宣告を神が象徴的な仕方で発表して以来,今やまもなく6000年の終わりを迎えようとしているということです。わたしたちはみなその最初の人間男女の子孫なのです。そのふたりがサタン的反抗に加わったため,人類家族全体に死がもたらされました。またそのために,わたしたち人間の最初の両親は,喜びの楽園つまりエデンの園を追われましたし,彼らが完全な人間として創造されて置かれたその楽園の住みかからわたしたちすべても閉め出されました。(創世記 2:7–3:24)そうであってみれば,医学の分野のあらゆる進歩にもかかわらず,わたしたちすべては死に向かっており,また現代の農業技術があらゆる点で改良されているにもかかわらず,この地が非常に汚染され,そこなわれて,人間の住みかとしてふさわしくなくなっているのも何ら不思議なことではありません。
人間はだれひとりとして人体に宿る死の働きを受け継がずにすむものではありません。なぜなら,わたしたちはみな,神に反抗した親の子孫だからです。その親は地上の楽園の住みかにいたとき,神の支配権のもとから自ら離れて,神の主要な反抗者,サタン悪魔の支配権のもとに身を置きました。(ロマ書 5:12)最初の人間男女から死に定められた状態を受け継がずに地上に生まれた人がただひとりいます。その人はイエス・キリストと呼ばれました。人間的に見てそのような不可能なことがどのようにして起きたのでしょうか。というのは,イエスには人間としての父もしくは命を与える者がいなかったからなのです。イエスの人間としての母親の体内にあったその卵細胞は,人間の夫によって受精されたのではありません。マリヤの胎内の卵細胞に生命を注ぎ込み,その卵細胞を成育させて1個の完全な人間へと成長させたのは,天にいる全能の神でした。全能者がその人間の卵細胞に付与したのは新しい生命ではありません。そうではなくて,ことばとして知られたご自分の天のみ子の生命力をその処女の卵細胞に移し,その成育を開始させたのです。
全能者はまず最初にみ使いガブリエルを用いてユダヤ人の処女マリヤにこの奇跡的な活動について知らせ,その生まれ出る男子をイエスと名づけるよう命じました。(ルカ伝 1:26-38)このようなわけで,マリヤが後に結婚した男の人は,彼女の息子イエスの真の父親ではありませんでした。(マタイ伝 1:18-25)ですから,聖書が示すように,イエスは『穢なく,罪人より遠ざかった』者として生まれました。(ヘブル書 7:26)それで,成人したイエスは,当時のユダヤ人の批判者に向かって,「汝等のうち誰か我を罪ありとして責め得る(か)」と言いえたのです。―ヨハネ伝 8:46。
大いなる反抗者サタン悪魔はこのイエス・キリストを攻撃の的にしました。なぜでしたか。なぜなら,サタンは,神のこのみ子がへびのかしらを砕く,もしくは『サタンを足の下に砕く』ための神の主要な代理者であることを知っていたからです。創世記 3章15節で予告されていたとおり,サタンはこの約束の苗裔,イエス・キリストに対して怨恨をいだいており,イエスの「踵」を砕くわざに取りかかりました。しかしサタンは,死,それも悲業の死をもっておどしてもイエスをして自分に隷従させうるものではないことを知りました。イエスはサタンの地的代理者の手による「死の恐れ」に屈せず,へびサタンとその代理者たち,つまり「苗裔」に対する怨恨を保ちました。イエスはエホバ神のみを恐れたのです。そのために,イエスは,へびサタンと妥協しませんでしたし,大いなるへびの「苗裔」の手によってもたらされる非業の死を恐れてそれをうまく回避したりもしませんでした。サタンはイエスをして,刑柱につけられる卑劣な犯罪者のような死からさえしりごみをさせることはできませんでした。イエスは訴えられて死刑に処されましたが,その訴えは偽りでした。イエスは,悪魔サタンに隷従する血肉の被造物のための犠牲として清い良心をいだいて死にました。
イエスを偽って告発して死刑にさせることにより,大いなるへびサタンは自ら敗北を招いていたにすぎません。彼は自分自身を無に帰する,つまり消滅させる最大の理由を整えていたにすぎなかったのです。これこそ,血肉の人間としてのイエスに関して霊感のもとにしるされた次のことばの要点です。「子等はともに血肉を具ふれば,主もまた同じく之を具へ給ひしなり。これは死の権力を有つもの,即ち悪魔を死によりて亡し,かつ死の懼によりて生涯奴隷となりし者どもを解放ち給はんためなり」― ヘブル書 2:14,15。
イエス・キリストは,死に至るまでも妥協することなく大いなるへびサタンに対して怨恨をいだいていることを,その『死によって』潔白な仕方で示しました。イエスはまた,天と地の,位の最も高いものから最も低いものをも含めてあらゆる被造物が絶対的に服すべきかたとしての天の父エホバ神の神聖な支配権の正しさを立証しました。全能者である至高の神はご自分の主要な立証者を死にとらわれたままに放置し,こうしてその忠実なかたをもはや用いられないままでいるということがあるでしょうか。エデンの園でエホバ神がへびに向かって話したときに予告した事がらによれば,そのようなことはありえません。神が予告したことからすれば,「婦」の苗裔が傷つけられるのは単に踵を砕かれるのであって,頭を砕かれるというようなことではありません。それで全能の神は西暦33年ニサン16日,死後3日目にイエス・キリストを死からよみがえらせることによって,その傷を癒しました。神はみ子イエス・キリストが全人類のための罪の供え物としてその完全な人間性を犠牲にしたことを認めました。それゆえに神はみ子を血肉を備えた完全な人間としてよみがえらせることはなさいませんでした。むしろ神は,み子を天の領域に復帰させました。人間となる前のみ子の生命はかつてその天からユダヤ人の処女の胎内に移されたのです。神は,み子イエス・キリストを不滅性(つまり不死)および「神の性質」を帯びた輝かしい霊者として復活させることにより,イエスを天に復帰させました。(ペテロ前書 3:18。コリント前書 15:42-54。ペテロ後書 1:4)このような復活を経たゆえに,栄光を受けたイエス・キリストは大いなるへびサタンよりもはるかに強力な者となり,また「死の権力を有つもの,即ち悪魔を亡し」うる強力な立場につきました。―ヘブル書 2:14。
大いなるへび,悪魔サタンが神の約束の苗裔の「踵」に加えた傷がこのようにして癒されたことから全人類は何を期待できますか。それは幾千年もの間全人類が願ってきたものですか。そうです,解放です! そうです,奴隷状態からの全人類のための自由です! 血肉の人間として死を味わう約束の苗裔に関してはっきりと述べられた目的は,自分の奴隷にならない人間を死をもって脅す悪魔を単に滅ぼすだけでなく,『死の懼によりて生涯奴隷となりし者どもを解放つ』ことなのです。(ヘブル書 2:15)地上の政治支配者の中には国民の中の奴隷をその所有者の手から解放したことで知られた人たちがいます。しかし,そのような人で,大いなるへび,悪魔サタンへの集団隷従から自国民もしくは全人類を解放できる人はひとりもいません。これは,悪魔などというものは存在しない,悪魔は神話の世界のものだと言って嘲笑すべき事がらでは決してありません。6000年を経たこの悪魔は,現代の世故にたけた人びとをして,悪魔などはいないと考え込ますほどに巧かつな者なのです!
今日,多くの人びとはともすればこう言うでしょう。『もし悪魔がいるなら,またもしイエス・キリストがその悪魔への隷従からわれわれを解放するために19世紀前に死んだのであれば,全人類がこれまでにそうした解放を実際に経験していないのはどういうわけか。全人類は今日解放されたと感ずるどころか,年ごとに悪化の一途をたどる事物の体制にわれわれが隷従させられているのはどうしてだろうか』。その理由は,聖書が示すように,神の約束の苗裔が『へびの頭を砕く』もしくは,悪魔サタンを『亡す』時がまだ到来していないということにあります。しかしながら,その望ましい時は今や非常に近づいています。1世紀当時にクリスチャンの使徒パウロがローマにいた仲間のクリスチャンにあてて,「平和の神は速かにサタンを汝らの足の下に砕き給ふべし」と書きえたのであれば,19世紀後の今日,それは非常に近いに違いありません。(ロマ書 16:20)単に長い歳月が経ったということだけでなく,西暦1914年以来続いている地上の『国々の民のなやみ』も,このことを証しています。(ルカ伝 21:25)神からの希望をいだいている人たちの期待がいよいよ高まっているのはそのためです。
人間の支配権の価値を今なお信じている何億もの人びとが納得するには,人間の支配権が(彼らの主張どおり)問題の解決策となること,またそれがおのずから解決の糸口を見いだしうること,そしてそれがいわば全人類の解放者であることを立証するための十分の時間的余裕を与えられなければなりません。その猶予された時間はまだ満了してはいません。しかしその終わりが切迫していることを考えれば,今こそ人びとは自分の欲するものを選択しなければなりません。第一に,また最終的に,そして終始人間の支配権を欲しますか。それとも神の任命した解放者を欲しますか。猶予された時間が終わるとき,各人はおのおの自己の選択に応じて報われるでしょう。その時,神聖な支配者は,自分たちの希望を神の設けた天的解放者に置く者たちだけを解放するでしょう。それ以前に,約束の苗裔イエス・キリストが待望の解放をもたらすことはありません。
西暦1世紀にイエス・キリストは地上で血肉を備えた完全な人間になりましたが,当時はご自分の政府を通して全人類を解放する時ではないことをご存じでした。彼は30歳になった時,神の意志に従って自己犠牲の道を歩むことに決め,ご自身を犠牲としてささげることを象徴するためにヨルダン川でバプテスマを受けました。(ヘブル書 10:1-5。マタイ伝 3:13-17)バプテスマを受けたのち,イエスはユダヤの荒野にひとりで出かけて行き,40日間断食して問題をもう一度考慮しました。その期間の終わりにさいして,彼は神によって決められた犠牲の道を終始,また死に至るまでも歩み続ける十分の決意をいだいていました。荒野での40日目の最後の日に彼はふと自分がひとりでいるのではないことに気づきました。だれかがイエスのもとにやってきました。彼を誘惑して,自己犠牲の道から引き離すためでした。その誘惑者は悪魔サタンでした。サタンはイエスを誘惑し,血肉の人間として自己満足と栄光と権力を伴う生活をさせようとしました。第3番目の最後の誘惑は最高潮をなすものでした。イエス・キリストの個人的な弟子すなわちマタイのしるした,その野心的な誘惑の記録(マタイ伝 4:1-9〔新〕)は次のとおりです。
「悪魔またイエスを最高き山につれゆき,世のもろもろの〔王国〕と,その栄華とを示して言ふ,『なんぢ若し平伏して我を拝せば,此等を皆なんぢに与へん』」。
イエスは問題を無視して次のようには言いませんでした。『悪魔などはいない。だから,たとえわたしがただ一度悪魔を拝したところで,どうして悪魔がわたしに「世のもろもろの〔王国〕と,その栄華」とを与えることができようか。まして,実在しないものをどうして崇拝できようか』。イエスは,『世のもろもろの王国』が誘惑者,悪魔サタンの手中にあるという考えに憤慨したり,そのような教えに反対して迫害をさえ行なったりする今日の国家主義的な人間の支配者たちとは異なっていました。彼は,悪魔が実在すること,また悪魔が『世のもろもろの王国』を見えない仕方で制御していることを否定しませんでした。『世の王国』について悪魔がイエスに向かって「この凡ての権威と国々の栄華とを汝に与へん。我これを委ねられたれば,我が欲する者に与ふるなり。この故にもし我が前に拝せば,ことごとく汝の有となるべし」と正当に言いえたことをイエスは否定しませんでした。(ルカ伝 4:5-7)ここでイエスは,この件に関する諸事実を述べた実在する者による現実の誘惑を受けました。捕われた状態にある人類にとってイエスの下す選択はなんと重大なことだったのでしょう。
大いなるへび,悪魔サタンはこの時点では,神の約束の苗裔の踵を砕こうとはしませんでした。「死の権力を有つもの,即ち悪魔」によってもたらされる悲業の死を明らかに回避させる何ものかをサタンはイエスに提供したのです。サタンは,人間として行使する世界の支配権,『世のもろもろの王国』を治める支配権,つまり全地を治める人間の支配権をイエスに提供していたのです。そうです,それは悪魔の崇拝者として,悪魔つまり超人的なひとりの霊者の監督下で行使する「人間の支配権」なのです。ここで選択を迫られた重大な問題は支配権に関するものでした。問題となったのは支配権だったのです! 人間の支配権それとも神の支配権のいずれを選びますか。悪魔に服して悪魔から与えられるものとしての人間の支配権を選びますか,それとも神聖な神に服して,神の手中にある支配権を選びますか。もしイエスが世の政治家のように自ら人間の支配権を選ぶということになれば,捕われた状態のうちにある人類にはどんな希望が残されたでしょうか。
この問題はわたしたちの想像にまかされてはおりません! それが何を意味するのかを示す歴史上の実例があります。どこにあるのですか ほかならぬキリスト教世界にあります どうしてそう言えますか。キリスト教世界はキリスト教を実践する地上の領域であると唱えられています。その多くの国々とその政府はキリスト教を奉じていると称しています。が,キリスト教世界はイエス・キリストおよびその12使徒とともに始まったわけではありません。イエスの属していた地的国民,つまりユダヤ国民はキリスト教世界の始まりとなったわけでもありません。ユダヤ国民は政治的共同体としては,西暦70年に王としてのイエス・メシヤのためでなく,ユダヤ主義およびローマ帝国からの政治的独立のためにエルサレムで戦って滅びました。ローマ軍団はエルサレムを滅ぼしてから3年後,つまり西暦73年にユダヤ人の最後の要さい,マサダを攻略しました。世界中の生来の正当派のユダヤ人は,キリスト教世界と協力関係にあるとはいえ,キリスト教世界のものではありません。
ユダヤの荒野でイエス・キリストが誘惑を受けたのち,3世紀ほど経ってキリスト教世界は存在するようになりました。それは,ローマ皇帝,コンスタンチヌス大帝の時代のことでした。同皇帝は西暦337年に死ぬ直前にキリスト教の信奉者としてバプテスマを施されました。しかし,彼はそれ以前の西暦312年にキリスト教に改宗したと唱えていました。その当時までには,いわゆるキリスト教はイエス・キリストとその使徒たちの教えからあまりにも遠く逸脱していたため,この異教徒の将軍で政治家であるコンスタンチヌスのために武装して戦う自称クリスチャンの兵士がいたほどでした。そのうえ,当時の諸教会の司教たちは三位一体,つまり「父なる神,子なる神,また聖霊なる神」によって構成される三位一体の神という異教の教理を教えていました。司教たちは,神はヘブル語聖書の述べるエホバなる唯一の神か,それともいずれも同等で永遠の,いわゆる「三つの位格を有する神」かどうかに関して激烈な論争を行なっていました。そこで,コンスタンチヌスはその論争を終わらせようとしました。
異教徒の最高僧院長であるコンスタンチヌスは教会の司教全員を味方に引き入れようとして,融合宗教,つまり異教とキリスト教をいっしょにした「信仰合同」による宗教を作り出そうとしました。最高僧院長として,したがってローマ帝国の宗教上のかしらとして行動したコンスタンチヌスは,ローマの国教を司どる役員としてローマ政府と関係を持ち,権力や富を伴う顕著な地位を司教たちに提供しました 今やここで政治政府と関連した人間の支配権がいわゆるキリスト教の司教たちに提供されたのです。わたしたちは,天のイエス・キリストが,かつて自ら退けた『世のもろもろ王国』に関連する人間の支配権をここでそれらの「司教たち」に提供していたと考えるべきでしょうか。それとも,それを提供していたのは,それらの王国を自分に委ねられたものとしてその所有権を依然主張していた誘惑者,悪魔サタンでしたか。その正しい答えを出すのはむずかしいことではありません。それは地上の配下の最高僧院長を通して事を進めた悪魔サタンです。その最高僧院長は,イエス・キリストに提供されたのと同様の誘惑を司教たちに差し伸べていたのです。それにしても「ローマの司教」を含め,それらの司教たちはイエスの模範に従いましたか。
一般の歴史および教会史は,否と答えます! 多くの司教は誘惑に屈し,ローマの国教つまりローマの国立教会の教階制度の成員として皇帝のための奉仕を開始しました。こうしてキリスト教世界は誕生し,成長しました。西暦378年には時のローマの司教は,ローマ皇帝グラチアヌスの放棄した最高僧院長の称号とその職責を襲用するほどになりました。以後,幾世紀にもわたってキリスト教世界はさまざまの分裂を経験し,それに伴って宗教戦争や十字軍,はては自称クリスチャンの間での迫害が起こりました。多くの国々には独自の国立の教会が確立されました。キリスト教世界は地上で最も強力で,最も多くの成員を擁する宗教組織に成長しました。それは,キリスト教を奉じていない,世界人口の今や3分の2以上を占める全異教世界にとって見ものとなりました。しかしそれは何を示す実例となっていますか。真のキリスト教を表わすものですか。それとも,王権神授説を主張する人間の王たちと協力する教階制度を通じて行使されたいわゆる神の支配権を表わす実例ですか。
第一次世界大戦は,それがキリスト教国をもって任ずるヨーロッパの二つの政治国家の間で勃発したゆえにキリスト教にかなう戦いでしたか 国際連盟は,それが英国国教会の支持を受けたゆえに,またアメリカの僧職者から地上における神の王国の政治的表現と呼ばれたゆえに,キリスト教にかなう組織でしたか 第二次世界大戦は,ある自称キリスト教国の軍隊が別のいわゆるキリスト教国の領土に侵入したために勃発したとの理由で,それはキリスト教にかなった戦いでしたか。国際連合は,その132の成員国の約半数がキリスト教を奉じているゆえに,キリスト教にのっとった,世界の平和と安全のための機構であると言えますか。核爆弾や核ミサイルを使用する第三次世界大戦に備えて着々と進められている準備は,キリスト教世界が自らの存続を図るためにそのような武器で自らを守らざるをえないと感じているゆえに,キリスト教の主旨にかなっていると言えますか。
創設以来,16世紀を経た今日のキリスト教世界の状態を見てください。キリスト教世界に見られる道徳の退廃,犯罪の増加,社会的また人種的偏見,圧制,経済的困難,貧困や飢え,正当な権威に対する尊敬の念の欠如,失政,利己的な快楽の狂気の追求,神に対する愛の喪失を示す隣人愛の欠如 ― このような事がらはキリスト教の表現と言えるでしょうか。絶対にそうは言えません! それは西暦4世紀に設立されたキリスト教世界のもたらした結果です。そして,キリスト教世界は,教会の司教たちが異教徒のローマ皇帝から差し伸べられた誘惑に屈したために生じたものですから,今日のキリスト教世界のそのような状態は,もしイエス・キリストご自身が提供された,『世のもろもろの王国』を治める人間の支配権というわいろを受け入れたなら,何が生じたかということをまざまざと,痛々しいまでに示すものとなっています。それにしても,イエス・キリストは悪魔サタンの誘惑的な申し出を受け入れましたか。イエスは今日の世界の悩みに対して責任がありますか。
聖書はこう述べています。「爰にイエス言ひ給ふ『サタンよ,退け「[エホバ]なる汝の神を拝し,ただ之にのみ事へ奉るべし」と録されたるなり』ここに悪魔は離れ去り,視よ,御使たち来り事へぬ」― マタイ伝 4:10,11〔新〕。マルコ伝 1:12,13。
イエス・キリストは悪魔サタンの手中にある人間の支配権をきっぱりと拒否しました。イエスは神の支配権,つまりエホバ神の支配権を認めておられたのです。イエスがイスラエル国民の地の方々に行って,「悔い改めなさい。天の王国は近づいたからです」とふれ告げたのはそのためでした。ヨルダン川でバプテスマを受けたのち,彼はその音信を宣べ伝えるよう,神の霊によって油を注がれました。そして,ご自分の12人の使徒を派遣して,全人類のためのその同じ希望の音信を宣べ伝えさせました。(マタイ伝 4:13-17〔新〕。ルカ伝 4:16-21; 9:1-6。マタイ伝 10:1-7)イエス・キリストは,神が約束の苗裔の手で治められる天の王国を樹立することによってご自身の神聖な支配権を表明なさるのを待ち望みました。その約束の苗裔は,全人類を解放するために,大いなるへびの頭を砕いて打ち滅ぼすことになっています。イエスはほかならぬエホバ神を最高の支配者,宇宙主権者として認め,神の支配権に忠実を保って死にました。
3日目に死人の中から復活させられたのちでさえ,イエスは全人類を治める天の王国を建てる神の予定の時を引き続き待ち望みました。このことについては,西暦1世紀のヘブル人のクリスチャンにあてて次のように書き送られました。「然れどキリストは罪のために一つの犠牲を献げて,限りなく神の右に坐し,斯て己が仇の己が足台とせられん時を待ちたまふ」。(ヘブル書 10:12,13)ここでは詩篇 110篇1,2節が引き合いに出されています。その句は次のとおりです。「エホバわが主にのたまふ 我なんぢの仇をなんぢの承足とするまではわが右にざすべし エホバはなんぢのちからの杖をシオンよりつきいださしめたまはん 汝はもろもろの仇のなかに王となるべし」。イエス・キリストはこの命令に従うことによって,神の支配権による支持を得,地上の仇つまり敵はみなイエスの承足つまり足台とされ,それらはみな完全に征服され,滅ぼされるでしょう。(詩篇 110:5,6)ですから,今日,イエスの敵,つまり神の支配権に敵する者たちの味方になるなら,何を期待しなければならないかを,わたしたちのすべては知っています。
それらの敵は,自分たちのためになお残されている時間内に何を人類に提供できるのですか。これまでわたしたちに提供してきた以上のすぐれたものは何も提供できません。それらの敵を支配する見えない権威を持つ,目に見えないもの,すなわち悪魔サタンは,『世の王国』を通して人類に何を提供できますか。何も提供できないばかりか,それらの敵はほかならぬサタンもろともキリストの足の下で打ち砕かれてしまうのです。預言の書である黙示録 12章の成就によれば,悪魔サタンとその悪霊たちは聖なる天からすでにこの地球の近辺に追い落とされました。全人類は大いなるへび,サタンとその悪霊たちがこの地に拘束されたことによる影響を,1914年から1918年にわたった最初の世界大戦以来ずっと感じてきました。以来,半世紀余の間,全人類はサタンとその悪霊たちが放逐された時に天で聞こえた次のような叫び声の意味をきわめて苦しい仕方で思い知らされてきました。「天および天に住める者よ,よろこべ,地と海とは禍害なるかな,悪魔おのが時の暫時なるを知り,大なる憤恚を懐きて汝等のもとに下りたればなり」― 黙示録 12:12。
人間の支配権は,現代科学のもたらしたあらゆる便宜および学問の進歩を伴うとはいえ,地と海からこの凶悪な「禍害」を拭い去ることはできませんでした。神の支配権に敵対する悪魔サタンの「大なる憤恚」は,人間の支配権を行使するあらゆる政治制度を完全な破滅に落とし入れずにはおきません。サタンは,もし自分が地を支配できないのであれば,人間の支配権を行使するそれら地的な種類のいかなる制度といえども自分のあとに存続させまいと決意しています。今や彼は自殺的企てを弄して,あらゆる政治上の人間の支配権を神の約束の苗裔,イエス・キリストの足の下で滅ぼさせようとしています。それは地上の住民がいまだかつて経験したことがないような悩みの時が来ることを意味しています。「事物の体制の終結」を予告したイエス・キリストは,そのことを次のように述べました。
「そのとき〔大かん難〕あらん,世の創より今に至るまで斯る〔かん難〕はなく,また後にも無らん。その日もし少くせられずば,一人だに救はるる者なからん,されど選民の為にその日少くせらるべし」― マタイ伝 24:3,21,22,〔新〕。マルコ伝 13:19,20。
西暦70年にローマ人がエルサレムの都を包囲して滅ぼしたときの惨事は,全地に及ぶ迫りくる大かん難のすさまじさを示す典型的な実例にすぎません。その大かん難をもってキリスト教世界およびこの人間の事物の体制の残余の部分すべては絶滅するのです。予告された,地球をおおう大洪水は義の宣伝者ノアの時代に確かに生じました。また,予告された古代のエルサレムの滅びは,エホバの預言者たちの時代およびイエス・キリストの使徒たちの時代に確かに生じました。それと全く同様に,世界的な滅びをもたらす予告されたこの大かん難は ― わたしたちのこの世代のうちに必ず生じます。今や約100年にわたってエホバのクリスチャン証人はこの世界的な大変災について全人類に警告してきました。それは単に,自分たちの宣べ伝えてきた事がらの真実性を実証するためではなく,むしろ自分たちが宣べ伝えてきたエホバの預言的なことばの真実性を実証するためなのです。いかなる人間といえどもそのかん難を免れることはできません。全人類はかん難の中のかん難に突入せざるをえません。問題は,人類の中のだれがそれに生き残るであろうかということです。
地上の人間はだれひとりとして自分自身の力,あるいは自ら構じうる人為的保護手段によっては生き残ることはできません。キリスト教世界は,単にキリストの名を誇示したり,教会の尖塔に十字架を掲げているからといって,難をのがれて生き残るための避難所とはなりません。しばしば人類「最後の希望」と呼ばれてきた国際連合もそのような避難所とはなりません。地域的提携また政治諸国家間の条約機構といえども,人間の支配者また支配される人間のいずれをも前代未聞のその「大かん難」を無事通過させるものとはなりません。人間の考案するものは何一つとして希望を与えるものとはなりえません。聖書の預言は全人類のそのきたるべき絶望的な窮状について事前に警告しています。人間の事物の全体制のまさに絶望そのものの前途を考えると,理性のある人すべてにとって,全人類のための唯一の希望は人間の領域以外のところにあるに違いないということが明らかになります。人類の救いは,人類があたかも自力で向上できるかのように,人類自体からもたらされたことは決してありませんし,またこれからもそのようなことは決してありません。したがって,唯物論すなわち物質以外のものは何も存在しないという共産主義の理論は行き詰まります。それは窮地に陥る以外にありません!
わたしたちの希望は,それが喜ばしい成就を見るものであるためには,霊的なものに依存していなければなりません。とは言っても,「この事物の体制」のあの霊的な「神」,つまり大いなるへび,悪魔サタン,すなわち人類に現代の「禍害」をもたらしている邪悪な者に依存しているものであってはなりません。(コリント後書 4:4)その者は,クリスチャンの使徒パウロによれば,すべて『この事物の体制に従って歩』んでいる「不従順の子らの中に今なほ働く霊」と呼ばれています。(エペソ書 2:2,新)そうです,真の希望を切実に必要としているわたしたちは,その見えない「この世の支配者」からわたしたちの目を転じなければなりません。(ヨハネ伝 12:31,新)わたしたちは,その支配者の,死と災いをもたらす事物の体制からわたしたちのあこがれの眼差しを転じなければなりません。では,人間や悪魔よりも高いどんな霊的なものに目を向けなければなりませんか。わたしたちは何にのみ確信をいだいて頼ることができますか。何千年もの時の流れを通じて,神聖な支配者の語る,「希望を持つ捕われ人よ,とりでに帰れ」ということばが鳴り響いています。―ゼカリヤ書 9:12,新。
約2500年前に預言者ゼカリヤを通して述べられたこの感動的なことばは,偉大な霊者の恵まれた民になりたいと誠実に願う人たちに対して話されたものです。その偉大な霊者についてイエス・キリストは,「神は霊なれば,拝する者も霊と真とをもて拝すべきなり」と言いました。(ヨハネ伝 4:24)「希望を持つ捕われ人」が帰らねばならなかった「とりで」とは神のメシヤの王国でした。遠い昔のその当時には,その王国はエルサレムの都によって表わされていました。そのエルサレムでは,ベツレヘムのダビデの王統の王が,「エホバの位」と呼ばれた王座に座していたのです。(歴代志略上 29:23)「希望を持つ捕われ人」は,異教を奉ずるバビロンにおける長い捕囚を終えてその地を出,神の支配権を表わすこの地的王国に「帰」らなければならなかったのです。そのバビロンの地では,悪名高い狩りゅうどニムロデの時代に,エホバ神に逆らって組織化された偽りの宗教が始められました。(創世記 10:8-10; 11:1-9)預言者ゼカリヤの時代には,そのバビロンは聖書の歴史における第3番目の世界強国として世界支配の座を占めていました。が,西暦前539年に全能の神は「捕われ人」に対するバビロンの拘束力を砕き,自由への道を開きました!
それはまさに,かすかにしかわからない遠い過去の歴史上の感動的なできごとの一こまです! しかし,それは死んでしまった過去の歴史ではありません。それは現代に対する生きた歴史であり,今日のわたしたちの世代にそれに対応する事がらが現に生じている預言的な歴史なのです。このことばが書きしるされて,イエス・キリスト以前のエホバの最後の預言者たちのひとりであるゼカリヤの預言の中に保存されたのはそのためです。では,今日のわたしたちは,「希望を持つ捕われ人」として類別してもらえますか。もし,「希望の神」がわたしたちの前に差し伸べる希望を認めて受け入れるなら,わたしたちはその部類にいれてもらえます。聖書巻末の書,黙示録は,古代のバビロンではなく,大いなるバビロンが今日存在することを事前にさし示していました。そのいっそう強大なバビロンは,共産主義のソ連をさえ含め,この事物の体制の政治政府と宗教面で関係を持つ偽りの宗教の世界帝国を表わしています。幾百もの宗教団体の信者またこの世の政治制度に固執する人のいずれを問わずこの世の諸民族はすべて,大いなるバビロンとその政治上の提携者たちの「捕われ人」です。それら「捕われ人」が救いにあずかるには,解放されなければなりません! 自由にされなければならないのです!
それはきわめて急を要することと言わなければなりません。なぜですか。なぜなら,大いなるバビロンとその政治上の情夫はすべて今やまもなく滅ぼされるよう定められているからです! 人びとは,きたるべき「大かん難」における滅び以外に何も期待できない霊的に捕われた状態からどのようにして解放してもらえるのでしょうか。解放の道はただ一つしかありません。そしてそれは,エホバ神が「希望を持つ捕われ人」すべての前に置かれた「とりで」に頼ることです。その「とりで」とは,古代のとりでの町,エルサレムで表わされている,神のメシヤの王国です。中東のエルサレムに建てられた初期のメシヤの王国は遠い昔に過ぎ去りました。が,それは現代に至って,その中東の地上のエルサレムにではなく,ダビデ王の王統の真の子孫すなわちイエス・キリストの座す天で再興されました。イエス・キリストの王座は初期のエルサレムにあった朽ちる物質で作られた王座のようなものではありません。それはまさしく「エホバの位」です。なぜなら,イエスは天でエホバ神の「右」に座しているからです。(詩篇 110:1,2。使徒行伝 2:34-36; 7:55,56。ペテロ前書 3:22。黙示録 3:21)そこからエホバは1914年における異邦人の時の終わり以来,『キリストの力の杖』をつき出させてきました。
エホバはこのキリストとその忠実な追随者たちの足の下にまもなく『サタンを砕き』ます。(ロマ書 16:20)このメシヤなる解放者の王国は,至高者である全能の神エホバの神聖な支配権を委任された代理機関です。それは全人類に唯一の希望を与えるものです それは,限りない幸福を伴う自由と命を求めて頼るべき,神の定めたとりでです。1918年における第一次世界大戦の終結以来,エホバのクリスチャン証人は大いなるバビロンに霊的に監禁された状態から去り,「とりでに帰る」,つまり天のエルサレムに樹立された神のメシヤの王国に帰ってきました。世界のゆゆしい状態は悪化の一途をたどっているにもかかわらず,証人たちは今や自分たちのすばらしい霊的解放を享受しており,間近な将来に対する自分たちの輝かしい希望に歓喜しています。彼らは,「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証のために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」というキリストの預言的な命令を果たしつつ,全人類に対する大いなる同情の念をいだいて,あらゆる場所にいるすべての「捕われ人」に向かって,『とりでに帰りなさい』と一心に叫びます。―マタイ伝 24:14,新。