“キリスト教”― 聖書のキリスト教とは異なるもの
「仏教とキリスト教について一つ言えることは,両者とも概念的,知的理論の構築をやめ,最初に存在した純粋の生きた体験に戻らなければならないということである」。これは鎌倉にある三雲禅堂の住職,山田耕雲さんの言葉です。
山田住職は,仏教とキリスト教の「接点」を示そうとしています。しかし,同住職の見解は仏教の教えと考えに立脚したものであり,キリスト教に対する理解はローマ・カトリック教徒との交友から得た知識に基づくものです。ですから同住職は,排除すべきだと自ら唱える「概念的,知的理論の構築」のわなに捕らわれています。
日本人のほとんどは山田住職と同じように,神,聖書あるいはキリストというと何もかも一緒にして,それがキリスト教だと考えます。カトリック主義と新教主義の間に違いがあるということもほとんど知りません。もっと重要な点としては,キリスト教世界と聖書のキリスト教との間に大きな相違があるということも知りません。
わたしたちは誠実な人々がその相違を認め,「最初に存在した」キリスト教,すなわちイエス・キリストが最初に教えたキリスト教を選ぶことができるよう助けになれたらと考えています。
日本には教会組織が創設した幼稚園や学校,大学,病院などがたくさんあります。エホバの証人は,キリスト教系の学校へ子供を通わせているお宅を訪問することもよくありますが,そのような時に尋ねてみると,興味深いことに,その学校がカトリック系かまたはプロテスタント系かさえ親が知らない場合が少なくありません。ただ,自分の子供はキリスト教の団体で教育を受けていると考えているだけです。しかしそれは本当に聖書のキリスト教でしょうか。
この問題は,ある学校または教会を,キリスト教の学校または教会と考えるだけでは不十分です。では,どうすれば本当に聖書のキリスト教なのかどうかを知ることができるでしょうか。わたしたちは物を買う時に秤で目方を調べ,物差しで長さを調べます。樹木でさえ,結ぶ実によって良い木であるか,悪い木であるかが分かります。「良い木はみなりっぱな実を生み出し,腐った木はみな無価値な実を生み出すのです。……あなた方はその実によってそれらの人々を見分けるのです」と,イエスは言われました。―マタイ 7:16-20。
わたしたちは,その学校または教会で教えられる事柄が聖書の教えと合っているかどうかを調べなければなりません。その「実」は聖書が教えている通りのものでしょうか。この試験は,「概念的,知的理論の構築」ではなくて事実に基づいて理性的な評価を行なうのに役立ちます。どうぞ,あなたの聖書を用いて,次に述べる教理や実践が正しいものであるかどうかを見定めてください。
あなたの教会または学校はこのようなものを用いていますか。教会または学校の周りにこうしたものが置かれていますか。
真のキリスト教は,聖書がそうしたものを用いることを禁じているために像や十字架を用いません。
「あなたは自分のために……いかなる彫刻像や形も作ってはならない」― 出エジプト記 20:4,5。
「偶像礼拝から逃げ去りなさい」― コリント第一 10:14。
「自分を偶像から守りなさい」― ヨハネ第一 5:21。
「神は霊であられるので,神を崇拝する者も霊と真理をもって崇拝しなければなりません」― ヨハネ 4:24。使徒 17:29; 5:30もご覧ください。
そうです,「最初」のころは像も十字架もキリスト教とは無関係だったのです。
神とはだれですか。
あなたの答えは「イエス」ですか。
真のキリスト教は,神は創造者であり,その名前はエホバであることを認めます。
「エホバが神であることを知れ。わたしたちを造ったのは神であって,わたしたち自身ではない」― 詩編 100:3。
イエスは「天におられるわたしたちの父」に対する祈りを教えましたが,その中には「あなたのお名前が神聖なものとされますように」という願いが含まれています。―マタイ 6:9,10。
イエスはご自分の名前について祈っておられたのではありません。
「エホバ」という名前は聖書の中に少なくとも7,000回出てきます。詩編 83編18節には,「それは,人々が,その名をエホバというあなたが,ただあなただけが全地を治める至高者であることを知るためです」とはっきり述べられています。
イエス・キリストはどんな方ですか。神の化身ですか。三位一体の一部ですか。神と同等ですか。
聖書にかなった真のキリスト教は,次の聖句を根拠にして,エホバ神との関係におけるイエスとイエスの地位を認めます。
イエスの親しい仲間であったペテロはイエスを,「生ける神の子」と呼びました。―マタイ 16:16。
イエスはご自分について,「わたしの父はわたしより偉大な方です」と言われました。―ヨハネ 14:28,欽定訳。
またイエスはご自分について,「わたしは,わたしの父またあなた方の父のもとへ,わたしの神またあなた方の神のもとへ上る」と言われました。確かにイエスは神ではありませんでした。―ヨハネ 20:17。
あなたは聖書についてどう考えますか。多くの人は聖書を持っていますが読みません。ましてや聖書を研究することなどはしません。聖書に書かれている事は神話だと考える人もいれば,創造の記録や処女降誕などを受け入れない人もいます。
真のキリスト教は聖書が真実であることを認めます。
ヨハネ 17章17節にあるように,イエスは「あなたのみ言葉は真理です」と言われました。わたしたちがイエスの行なわれた評価を疑う理由はありません。
「聖書全体は神の霊感を受けたもので(す)」― テモテ第二 3:16。
クリスチャンは「原始」から聖書を「神の言葉として」受け入れていました。―テサロニケ第一 2:13。
あなたの教会はどのようにしてお金を集めますか。寄付盆を回しますか。あなたの名前を書いた封筒を使いますか。あなたは十分の一税を納めますか。結婚式や葬式を行なうとき教会にお金を払いますか。
聖書のキリスト教は「最初」から,お金を求めて圧力をかけたことはありません。聖書のキリスト教は常に自発的な寄付によって支持されてきました。
「各自いやいやながらでも,強いられてでもなく,ただその心に決めたとおりに行ないなさい。神は快く与える人を愛されるのです」― コリント第二 9:6,7。
あなたは「あなたの王国が来ますように」という言葉を唱えたことがありますか。この王国とは何でしょうか。単なる心の状態のことですか。現実の政府のことですか。―マタイ 6:9,10。
聖書のキリスト教はその王国が現実の政府であることを認めます。そしてその政府が間もなく人間の作った政府を地上から一掃し,楽園の状態のもとで義の新秩序が支配する道を備えることを認めます。
「そして,それらの王たちの日に,天の神は決して滅びることのないひとつの王国を立てられます。そして,その王国はほかのどんな民にも渡されることはありません。それはこれらのすべての王国を打ち砕いて終わらせ,それ自体は定めのない時に至るまで続きます」。(ダニエル 2:44)一つの状態ではこのことを行なうことはできません。現実の政府でなければこれは行なえません。イザヤ 9章6,7節もお調べください。この聖句はイエス・キリストが王国の王として行なわれることを示しています。
キリスト教世界は,人には死ぬと体から出て行く魂があると教えます。この魂は,人がこの地上でどんな生き方をしたかによって天国かまたは地獄へ行くということになっています。そうなると,死というものは魂が通過する門になります。
聖書のキリスト教は,魂とは人そのものであると教えます。「それからエホバ神は地面の塵で人を形造り,その鼻孔に命の息を吹き入れられた。すると人は生きた魂になった」。(創世記 2:7)ですから人は魂を与えられたのではなく,魂になったのです。
アダムとエバの不従順のために人間はみな罪人になりました。ですから聖書は,「罪を犯している魂 ― それが死ぬのである」とわたしたちに告げています。(エゼキエル 18:4,20)死は生命の停止,生の反対です。喜びや苦しみを経験することはなく,静寂があるのみです。
死んでいった無数の人々にはどんな希望があるでしょうか。イエスはこう答えておられます。「このことを驚き怪しんではなりません。記念の墓の中にいる者がみな,彼の声を聞いて出て来る時が来ようとしているのです。良いことを行なった者は命の復活へ,いとうべきことを習わしにした者は裁きの復活へと出て来るのです」― ヨハネ 5:28,29。
諸教会が多くの社会事業を行なってきたことは確かです。しかし,聖書の教えの「実」を持っていないことは明白です。多くの人はこれらの組織をキリスト教と考えるかもしれませんが,それらの組織は明らかに聖書のキリスト教ではありません。
それでもしあなたが真理を探し求め,また永遠の命を望んでおられるならば,エホバの証人はあなたのお宅で,ご都合の良い時間に,全く無料で聖書研究のお手伝いをいたします。『永遠の命へ導く真理』を学ぶのを助けるようエホバの証人にお申しつけください。(ヨハネ 17:3)これこそイエス・キリストが「原始」に教えた聖書のキリスト教です。
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神
ヘブライ語ではיהוה=エホバ
イエス・キリスト