テサロニケ第一
注釈 5章
時や時期: 使徒 1:7の注釈を参照。
エホバの日: 聖書全体を通して,「エホバの日」という表現は,エホバ神が敵に処罰を下しご自分の偉大な名を栄光あるものとする特別な時を指す。この表現はヘブライ語聖書に背景がある。(例えば,イザ 13:6,エゼ 7:19,ヨエ 1:15,アモ 5:18,オバ 15,ゼパ 1:14,ゼカ 14:1,マラ 4:5。)預言者ヨエルは,「エホバの大いなる畏るべき日が来る」と述べた。(ヨエ 2:31)この聖句は,使徒 2:20にあるように,西暦33年のペンテコステの時にペテロによって引用されている。(使徒 2:20の注釈を参照。)ヨエルの預言は1世紀に実現し,西暦70年にエルサレムに「エホバの日」が来た。ここテサ一 5:2で,パウロは将来のエホバの日について述べていて,それはマタ 24:21でイエスが予告した「大患難」に相当する。この節で神の名前が使われていることについては,付録C3の序文とテサ一 5:2を参照。
夜に忍び込む泥棒のように: 泥棒はたいてい,夜中,不意に素早く忍び込む。(ヨブ 24:14。エレ 49:9。マタ 24:43)同じように,エホバの日も突然に来て,人々を驚かせる。(ペ二 3:10。啓 16:15)忠実なクリスチャンは,その日が来ることを予期しつつ生きるようにという助言に従う。(ルカ 12:39。啓 3:3)その日は誰も予期しない時に突然始まるが(マタ 24:42-44。ルカ 12:40),クリスチャンは備えができている。(テサ一 5:4)
突然滅ぼされることになります: パウロはここで,「平和だ,安全だ!」という宣言からそう宣言する人たちの滅びまでの時間はほとんどない,もしくは全くないことを示している。滅びは突然で,逃れることはできない。このギリシャ語フレーズで,驚くほど突然に滅びることを強調するために2つの語が使われている。この2語の似た組み合わせは,エホバの日が来ることに関してルカ 21:34でも使われている。
妊婦に起こる陣痛と同じように: 陣痛は突然に来る。正確な日と時刻は事前に分からない。とはいえ,パウロの比喩が強調しているのは,滅びが突然に来ることと始まったら止められないこと。陣痛がいったん始まったら,妊婦は,止められない過程に入ったことを知る。マタ 24:8の注釈と比較。
彼らは決して逃れられません: パウロはここでギリシャ語の否定語を2つ使って,邪悪な人たちが「突然滅ぼされること」から逃れられないことを強調している。
不意に夜が明けて驚く泥棒のように,急にその日が来て驚く: この訳は,複数形の「泥棒」を目的語とする読みに基づいていて,それには写本の有力な裏付けがある。また,パウロが「皆さんは暗闇の中に」いるのではなく「光の子であり,昼の子です」と言っている文脈とも合っている。(テサ一 5:5)しかし,聖書翻訳によっては「泥棒が来て驚くように」という考えを伝えている。これは,単数形の「泥棒」がこの部分の主語になっている幾つもの古代のギリシャ語写本に基づいている。いずれの読みの場合も,クリスチャンはエホバの日が来た時に驚きで圧倒されることはないという考えをおもに伝えている。
泥棒のように: パウロはテサ一 5:2でエホバの日を,予告なしに突然来る泥棒に例えている。しかし,ここでパウロは別の例えを使っているようで,エホバの日を夜明けになぞらえている。その夜明けの光は,闇に紛れて物を盗む泥棒のしていることを明らかにする。(ヨブ 24:14。ヨハ 3:20)盗むことに集中している泥棒としては,夜明けに気付けず朝の光に「驚く」ことになるだろう。泥棒とは違い,真のクリスチャンは夜にも闇にも属していない「光の子」であるべき。(テサ一 5:5)2節の例えでも4節の例えでも,パウロが強調しているのは,クリスチャンとして注意を怠らないようにする必要があるということ。
眠っていて: 「眠っていて」と訳されているギリシャ語は,聖書ではたいてい睡眠を指す。(マタ 8:24。マル 4:38。テサ一 5:7)しかし,無関心または無頓着で,注意を怠っている人を指す隠喩として使われることもある。人は眠っている時,周りで起きていることや時間の経過に気付かない。同じように,ここで言う眠っている人は,エホバの目的に関する重要な進展や,エホバの日が間近に迫っていることを識別できない。ここでパウロはクリスチャンに,エホバの裁きの日がずっと先であるかのように思っている「ほかの人のように」眠っていてはならないと警告している。(ペ二 3:10-12)
頭がさえた状態を保ちましょう: 直訳,「しらふでいましょう」。または,「鋭敏な感覚を保ちましょう」,「冷静さを保ちましょう」。ここで使われているギリシャ語はテサ一 5:8,テモ二 4:5,ペ一 1:13; 4:7(「常に意識していましょう」); 5:8にも出ている。
信仰と愛の胸当て: この節でパウロは2つの武具を例えにして,信仰,愛,希望という3つの重要なクリスチャンの性質について述べている。(この節の救いの希望というかぶとに関する注釈とテサ一 1:3の注釈を参照。)胸当てが兵士の心臓を守るように,信仰と愛はクリスチャンの心を守る。パウロはこうした性質を,戦場で命の危険にさらされる戦士が着ける装備に例えて,それらがクリスチャンの生活に不可欠であることを強調している。エフ 6:14では「正義」という性質を胸当てに例えている。
救いの希望というかぶと: かぶとが兵士の頭を守るように,救いの希望はクリスチャンの思考力を守る。パウロはこのかぶとを,クリスチャンとして目を覚ましていることの大切さについて述べる中で,「信仰と愛の胸当て」と共に挙げている。(テサ一 5:6,7)このかぶとをかぶるクリスチャンは,モーセと同じように「報いを一心に」見つめる。(ヘブ 11:26)救いの希望をしっかり持ち続けるなら,クリスチャンとして目を覚ましていられる。エフ 6:17の注釈を参照。
眠って: または,「死んで眠って」。「眠っている」と訳されるギリシャ語は,死んでいることと関連して使われている。(マタ 9:24。マル 5:39と注釈。ルカ 8:52)ここテサ一 5:10でパウロは,目を覚ましているとか眠っているという表現を,生きているとか死んでいるという意味で使っているようだ。
これからも励まし: または,「これからも慰め」。同じギリシャ語がテサ一 4:18で使われている。どちらも現在形で,継続的な行為を表す。ロマ 12:8の注釈を参照。
皆さんを監督し: または,「皆さんの指揮を執り」,「皆さんの中で率先し」。ギリシャ語プロイステーミは,字義的には「前に立つ」という意味で,導く,指揮する,指導する,気を配る,世話するという考えを伝えている。
助言を与え: ここで使われているギリシャ語(ヌーテテオー)は,「考え」(ヌース)という語と「置く」(ティテーミ)という語を組み合わせた語。字義的には「考えを入れること」と訳せる。テサ一 5:14のように,ある文脈では「警告を与え」るという意味を伝える。
その人たちに……深い思いやりを示して: この表現は,クリスチャンが自分たちの中で「一生懸命に働」いている人たちに抱くべき愛情と尊敬の気持ちを強調している。(テサ一 5:12)「深い」と訳されているギリシャ語は強い表現で,「越えて」,「並外れた」,「豊かに」という意味の語を組み合わせたもの。
秩序を無視する人: 「秩序を無視する」に当たるギリシャ語はしばしば,隊列を乱す兵士や規律を欠く兵士に関して使われた。1世紀の歴史家ヨセフスはこの語を使って,「無秩序に進む」部隊を描写している。ギリシャ語の口語で,この語は怠惰な人を表すことがあったが,認められた基準に従わない人を指すことの方が多かった。ここでパウロはこの語を広い意味で使っていて,クリスチャン会衆内の無規律で,不従順で,クリスチャンの基準からかなり逸脱した人を描写している。(テサ一 4:11。テサ二 3:6)
に警告を与え: または,「を訓戒し」。テサ一 5:12の注釈を参照。
気落ちしている人: または,「落胆している人」。ここで使われているギリシャ語(オリゴプシュコス)は,「小さい」という意味の語とプシュケーという語からできている。古代のギリシャ語著述家は,「大きい」という意味の語とプシュケーを組み合わせた反対の意味の単語を使って,自信があって自立している人を指した。それで,パウロがここで使っている語は,自尊感情が低いという意味を含むようだ。同じギリシャ語がセプトゥアギンタ訳で,ヘブライ語の「不安を抱いている」や「悲嘆に暮れた」という語の訳として使われている。(イザ 35:4; 54:6)テサロニケのクリスチャンの中には,迫害や仲間の死のために落胆している人もいたかもしれない。(テサ一 2:14; 4:13-18)パウロは仲間のクリスチャンに,気落ちしている人に訓戒や警告を与えるよう勧めてはいない。むしろ,慰めて元気づけてくださいと言っている。この節の慰めの言葉を掛けに関する注釈を参照。
慰めの言葉を掛け: 「慰めの言葉を掛け」に当たるギリシャ語動詞(パラミュテオマイ)はラザロの死後その姉妹マリアとマルタを慰めに行ったユダヤ人に関して,ヨハ 11:19,31でも使われている。これは優しさや慰めの程度が強い語。コ一 14:3の注釈を参照。そこでは,関連する名詞が「慰めます」と訳されている。
誰に対しても辛抱強くあってください: 「辛抱強さ」を指すギリシャ語は,穏やかに忍耐することやすぐに怒らないことを意味する。エホバとイエスは人間に対していつも辛抱強さを示している。(ロマ 2:4; 9:22。テモ一 1:16。ペ一 3:20。ペ二 3:9,15。ガラ 5:22の注釈を参照。)エホバとイエスに倣うクリスチャンは,人に辛抱強く接するようにする。(コ一 11:1。エフ 5:1)「辛抱する」というギリシャ語動詞は,2人の奴隷に関するイエスの例えの中で2度使われていて,それぞれの奴隷が「もうしばらく辛抱してください」といった懇願をしている。(マタ 18:26,29)許さない「邪悪な奴隷」は,天の父を表すこの例えの主人とは対照的に,辛抱と憐れみを示そうとしなかった。(マタ 18:30-35)イエスの例えや,同じ動詞が使われているペ二 3:9から読み取れるように,他の人のことを辛抱することには許しと憐れみが関係している。
絶えず祈ってください: パウロはテサロニケの人たちに,文字通り絶え間なく祈り続けることを求めていたのではない。むしろ,祈りを大切にし,いつも神の導きを求め,生活のあらゆる面で神に頼る必要性を常に意識するよう促している。(格 3:6)他の何通かの手紙でも,同じように勧めている。(ロマ 12:12。エフ 6:18。フィリ 4:6。コロ 4:2)
聖なる力の働きを妨げてはなりません: または,「聖なる力の火を消してはなりません」。「火を消して」という表現は,字義的には「消す」,「食い止める」を意味するギリシャ語動詞1語を訳したもの。その語は,マル 9:48とヘブ 11:34で象徴的な火と文字通りの火に関して使われている。ここでパウロはその語を,神の「聖なる力」つまり神の送り出す力について比喩的な意味で使っている。この聖なる力はクリスチャンの中で火のようになって,その人がその力によって「熱意に燃え」るようにし,エホバの意志に従って話したり行動したりするよう力づけることができる。(ロマ 12:11と注釈,使徒 18:25の注釈を参照。)罪深い欲望に従って考えたり行動したりするクリスチャンは,神の聖なる力を軽視していることになり,自分の心の中で聖なる力を消していることになる。(ガラ 5:17。テサ一 4:8)
預言: つまり,神からの言葉。(用語集の「預言」参照。)神からの言葉を軽く扱うとは,それを無価値なものと見なし,無視し,軽蔑して退けることを意味する。
全てのことを確かめてください: この言葉は,クリスチャンは自分の信じる「全てのこと」が神の意志に沿っているかを確かめなければならないということを示している。(使徒 17:11と比較。)パウロはこの文脈の20節で,特に「預言を軽く扱ってはなりません」と述べている。この忠告が示す通り,テサロニケのクリスチャンは自分たちが信仰を持つどの預言も本当に神からのものかを「確かめ」るべきだった。西暦1世紀,キリストの弟子の中には,預言する能力を与えられた人たちがいた。(ロマ 12:6。コ一 14:1-3)とはいえ,イエスは偽預言者が現れることも予告していた。(マタ 24:11,24。マル 13:22)クリスチャンは,預言を語っているのがどんな人かを考慮し(マタ 7:16-20),その預言が聖書の内容と合っているかどうかに気を付けるべき。パウロがテサロニケの人たちに手紙を書いた時(西暦50年ごろ),ギリシャ語聖書の中で書き終えられていたのはマタイの福音書だけだったと思われる。それで,預言や教えが本当に神からのものかどうかを判別する上で,ヘブライ語聖書を注意深く調べることがとても重要だった。
確かめてください: 使徒パウロが使っている「確かめ」るに当たるギリシャ語は,「試す」とも訳せる。このギリシャ語は,何かが本物かどうかを調べて精査するという意味。貴金属の鑑定に関して使われている。パウロはロマ 12:2(注釈を参照)の「見極める」という表現で,同じギリシャ語を使っている。
皆さんの精神と命と体: パウロが1世紀のクリスチャン会衆全体のことを深く気遣っていたことが,テサロニケの兄弟たちのための心からの祈願(23,24節)に表れている。この文脈で,3つの言葉には以下の意味があるようだ。精神とは会衆全体の精神。(コ一 5:5,ガラ 6:18の注釈と用語集の「プネウマ」を参照。)命とは会衆の存在。(用語集の「プシュケー」参照。)体とは会衆を構成する天に行くよう選ばれたクリスチャンの集合体。(コ一 12:12,13と比較。)神が会衆を「全く」神聖なものとし「全ての点で健全で」あるようにしてくださるようにというパウロの願いから,会衆への深い気遣いが分かる。
私たちの主イエス・キリストの臨在の際に: テサ一 2:19の注釈を参照。
聖なる口づけによって: ロマ 16:16の注釈を参照。
主: このような文脈で,「主」はエホバ神もイエス・キリストも指せる。ヘブライ語聖書の背景や文脈に神の名前の復元を支持する根拠がない場合,新世界訳聖書翻訳委員会はそのまま「主」と訳し,翻訳者の立場を超えないようにした。(付録C1参照。)ギリシャ語聖書のヘブライ語やその他の言語への翻訳の幾つかは,ここで神の名前を使っているが,この文脈で「主」は主イエス・キリストを指す可能性が高い。(テサ一 5:28)
皆さんに示されますように: 一部の写本では手紙の最後に「アーメン」とある。「アーメン」で終わっているパウロの手紙もあるが(ロマ 16:27。ガラ 6:18),ここでその語を付けることには写本による強力な裏付けがない。